南部家の家臣であった大浦為信は、南部家の内紛に乗じて謀反を起こし津軽地方を制圧。大浦為信は津軽氏を名乗り、必至の政治工作によって秀吉、家康と所領を安堵され津軽藩が成立します。そういった歴史から南部家とは確執が絶えませんでした。さらに幕府と濃厚な関係を築いた津軽氏は、大藩である盛岡藩よりも上位の官位を得るにいたっては、ついに南部藩家臣による津軽藩主暗殺未遂事件も引き起こします。津軽藩は立藩当時は4万5000石でしたが、その後蝦夷地警備等の名目で表高を10万石に高直しされます。しかし、実際の石高は新田開発によってそれを遙かに上回るものだったと言われています。明治に入り弘前藩と改め、やがて青森県となります。
明治以降の弘前は「学都」を目指し、多くの外国人教師を招いたことで早くからキリスト教の影響もあり、文明開化とあいまって独特の洋館が立ち並びます。
これらの洋館は、弘前藩おかかえの大工であり、洋風建築の先駆者・大工の神様と呼ばれた堀江佐吉を輩出の手によるものです。
明治以降は軍都として繁栄しましたが、幸いにも戦災をまぬがれた為に100年近い時を経て明治・大正期の西洋建築や教会が現在も数多く残っています。一方で文明開化による近代化がいち早く行われた為か、弘前には日本家屋の町並みはほとんど残っていませんでした。弘前城の北側の仲町には若干の武家屋敷と商家が残っており伝統的建造物保存地区となっていますが、多くは移築された門塀のみですが、かやぶきの母家の旧岩田家住宅などわずかながら残されています。
視点を変え、西洋建築を探すと弘前の町はまさに宝庫であり、散策を十分満喫する事ができます。 その途中に土蔵や商家などを所々で発見するでしょう。
津軽地方の中心地にして米どころである弘前には数多くの酒蔵があります。今回各蔵を訪れる機会がなかったので、あらためて訪れようと思います。
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