宮古は三陸海岸の中部。閉伊川の河口に広がる町。V字型に深く切り込んだ宮古湾に臨む町。リアス式の天然の良港かと思いきや、三陸海岸は日本、世界有数の津波常襲地帯です。文献からは60年に一度、京都大学の計算では35年周期と言われています。宮古は古代蝦夷の時代からの漁港ですが、平安期ごろから宮古の名が見られ始めます。本格的に都市が建設されるのは江戸時代に入ってから。
古くから閉伊郡における政治経済の中心地で、都(京都)との物流もあり、それが宮古の地名に由来するという説もあります。
関ヶ原の戦いが終わった江戸時代初期、盛岡藩は宮古を藩の外港とする計画で代官を派遣します。しかし、その直後に発生した大津波によって宮古は跡形もなく消滅してしまいました。
藩は宮古の復興第一弾としてまず本町(もとまち)を建設し、そこから町割りを始めました。本町から新町(あらまち)が分離し、横町、田町、荒町、御水主町(おかこまち)と町場は拡大して行きます。御水主町とは盛岡藩船の乗組員が住む町で後に向町と改名されます。宮古代官所は現在の本町にある市役所分庁舎付近と言われています。こうして宮古は代官所を中心に商人が住む城下町的性格をもった町へと発展
。
港は盛岡藩の重要な外港として、江戸・長崎向けの諸産物積出港、松前船(北海道航路)の中継地、三陸定期船の寄港地、さらに中国へ向けての海産加工品の輸出で賑わい、多くの豪商を輩出し、廻船問屋が軒をならべました。
その繁栄を物語るように、宮古の遊郭は東北最大の花街として、江戸の吉原に匹敵する規模として知られました。宮古の町家300軒のうち半分近くが遊女をかかえ、それでもなお遊女が足りなかったといいます。
もっとも、栄えていたのはこの宮古くらいであり、耕地面積が少なく周囲を険しい山に囲まれた陸の孤島であるこの閉伊地域は常々飢饉の見舞われる貧しい地域でした。
明治になり盛岡藩の消滅と共に宮古の繁栄に陰りが見えていきます。
明治に入り、各地で鉄道建設ラッシュが進みますが、標高の高い山々に囲まれた宮古へ鉄道が延伸するのは昭和9年になってからの事。この時宮古駅は町の西端に設置された為に、町の中心も駅のある西側へ移動し、かつての中心であった本町は寂れてしまいます。「本町の町並み」が地図に紹介されていたため、駅から10分ほど歩いて訪れましたが、黒漆喰の重厚な平入り土蔵造りの商家と、切妻妻入りの屋敷構えの商家の2軒しか伝統的な建物に関しては残されていませんでした。もちろん東北最大の花街の面影は微塵もありません。
しかし、宮古は古くから大津波に加え、冬季に乾燥した季節風がたたきつける地形の為に幾度もの大火に見舞われており、町を歩くといたるところに土蔵を目にします。
これらは華やかしき頃の遺産とも言えます。
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