アイヌ語で「湖のある丘原」を意味するトオヌップを語源をする遠野は、さまざまな伝承を今に伝える町。
柳田國男の「遠野物語」をはじめ、カッパ淵やデンデラ野にオシラサマ・・・ファンタジーの要素あふれ、なにより「遠野」の響きが良い。
三陸釜石と盛岡城下を結ぶ遠野街道の中心地として賑わった遠野は、南部氏の育成する”みちのくの名馬・南部駒”の一大産地でもありました。
中世より遠野の地頭であった阿曽沼氏は、急速に勢力を拡大する南部氏に組み込まれていきますが、一族の内紛により滅亡します。盛岡藩の直轄地となった遠野は三陸と内陸をむすぶ商業の中心地として保護され急速に発展したものの、治安の悪化も著しく、また阿曽沼氏の残党の不穏な動きもあり、ついに一族の名家である八戸南部氏を起用して遠野の直接支配を行います。
遠野には城と城下町が整備され、遠野南部氏は盛岡南部氏の重臣の中でも別格の扱いを受けると共に、独立した藩にも準ずる権限を与えられました。
現在、遠野城下の町並みは残されてはいませんが、田園地域には茅葺きの曲家が多く見ることができます。
附馬牛町上附馬牛地区には南部曲家が移築保存された「遠野ふるさと村」がありますが、河童伝説を伝える土渕町地区にも移築保存された施設をはじめ、現役の農家の曲家などを見ることができます。
しかし、遠野を知るにはじっくり越を据える必要が入りそうで、改めて訪れたいと思います。
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