会津地方の中心地であり、喜多方とならぶ観光地として、今さら説明など不用な会津藩の城下町。
幕末京都の治安維持の為に「新撰組」を組織した京都守護代・会津藩主松平容保、戊辰戦争で悲運の最期を遂げた白虎隊で有名な会津若松は「奥州の都」ともよばれていました。しかし、都市化や区画整理によって、会津若松の古い街並みはほとんど残ってはいないのが現状です。
会津若松の始まりは、戦国期に伊達政宗が治めていた時代、「黒川」と呼ばれたこの地に蒲生氏郷が92万石で入封し、故郷近江日野の若松の森にちなんで「若松」と名付けた事にはじまります。織田信長の後継者と目された氏郷はその力量を恐れた秀吉によってこの会津へ左遷されたのです。
近代的な城下町を整備した氏郷は楽市楽座を発展させた「十楽」という自由商業政策を行って町は活気にあふれ、さらに会津漆器を始めとする殖産の育成も積極的に行いました。
会津若松駅から商店街もしくは栄川酒造の通りを約15分ほど歩くと、七日町・大町の辻に出ます。かつて高札場があったこの通りには古い街並みが比較的多く残されています。観光名所として景観整備も行われていまえうようですが、やはり町の中心部だけあり交通量く、休日などは観光客や観光バスで溢れかえっています。
会津若松市街には多くの酒蔵がありますが、それはまた次の機会の課題にします。
下記に分かる範囲でリストアップしていますが、総ての所在は確認していません。
すでの移転や廃業している蔵もあるのではないかと思います。
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