南会津地方は、平安期にすでに「長江郷」と呼ばれる藤原氏の荘園の一部で、鎌倉期には南会津地域を「南山:みなみのやま」と呼んでいました。南北動乱期には長沼氏が田島に鴫山城を築いたのですが、このころから今に続く「田島祇園祭」が始まりました。
秀吉の時代に南山は蒲生氏会津領となり、鴫山城は南山城に名称を変えます。
江戸時代に入り、会津若松に保科正之が入封すると南会津270ヶ村は幕府直轄地となります。南山御蔵入領の始まりです。
しかし実際のところ220年余りの内で幕府が直接支配したのは1/5の47年間あまり。ほとんどの期間は会津藩に委託されたようです。幕府は田島に陣屋を置き、直接支配の期間だけ代官を派遣しました。
さらに田島には会津西街道の宿場町も整備されます。幕末の戊辰戦争でも戦災を逃れ、廃藩置県で田島村が成立。積極的に産業を育成し林業や銅山で繁栄、南会津郡役所が置かれると南会津の政治経済の中心となりました。
が、これまた度重なる大火災で町並みは消失、追い打ちをかけ八総鉱山の閉鎖によって町は急速に過疎化を迎え、往時の面影はほとんど残っていません。
南会津の地酒としては「國権」や「金紋会津」が有名ですが、いずれの蔵も普通の社屋になっていました。とりあえず、お酒を買って田島を後にしました。
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