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宮城県の三陸と言えばまず思い浮かぶのが松島と気仙沼。気仙沼は古くから三陸地方における海の玄関口にして人や物資の集散地として栄えた港町です。今も気仙地方の中核都市である事に変わりはありませんが、昨今の地方都市の例外ではなく、この港町もあまり活気は感じられず、国道の通過点でありどこか郷愁的な雰囲気を漂わせていました。
気仙沼の歴史は古く8世紀ごろにはすでに「計仙麻:けせま」よ呼ばれていました。この地名はアイヌ語のケセモイ「最端の港」に由来すると言われています。当時から近隣の山地では金山が発見され、気仙沼は産出された鉱物の積出港として発展ていました。
奥州藤原氏の時代には”平泉の裏金山”とよばれ中尊寺金色堂は気仙の金が使用されたといわれています。
リアス式の三陸海岸においては陸路よりも海路の方が好まれ、近郷の農産・水産を始めとする諸物資の集散地となり、海上交通の玄関口でもありました。
三日町や八日町は仙台藩の公用の御伝場町で、その後気仙沼本郷宿として整備されます。現在の気仙沼に藩政時代の建物は皆無ですが、大正期から昭和初期に建てられたであろうレトロな街並みが随所に見られます。
しかし、2011年(平成23年)3月11日。宮城県の三陸沖、牡鹿半島の東南東約130kmで、マグニチュード 9.0クラスの巨大地震が発生。この地震が生み出した高さは15メートル以上の津波は、北は青森県八戸市から南は宮城県仙台市までの三陸沿岸、さらに福島県沿岸から茨城県、千葉県沿岸の町に甚大な被害を及ぼしました。 中でもリアス式の三陸海岸の町々は、その地形ゆえに津波が最大で30m以上の高台まで駆け上がり、「町」そのものを丸ごと消失させる惨事にまで至ったのです。
のちに「東日本大震災」と命名されたこの震災では、気仙沼の町も全てが海に洗い流されてしまったのです。 |
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気仙沼の町並み(震災前) |
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