中世以来伊達家の所領だった白石は、秀吉によって会津・米沢地方と共に没収され伊達正宗は岩出山に左遷されてしまいます。
替わりに豊臣政権の重臣蒲生氏が会津を治め、白石には近世的な白石城が築かれました。白石はその後越後から転封になった上杉氏の北辺の防衛拠点となりますが、関ヶ原の戦後再び伊達領となり、仙台藩南辺の防衛拠点「要害」として、伊達家随一の名参謀と呼ばれた片倉小十郎が入り、以後幕末までの260年間白石は片倉氏の城下町として発展します。
また白石城は伊達藩の要害のなかで唯一「城」として認められていました。
しかし、わずか1万8000石の小大名が最防衛拠点の重責を担った為、家臣は貧窮し、内職によって生活を支えます。その内職である和紙造りが白石の名産品になりました。現在、西益岡町には茅葺き民家の武家屋敷が残っていますが、その質素・素朴な造りは当時の白石武士の様子が伺えます。
旧奥州街道と米沢街道が通る宿場町でもあった市内には、当時の面影を残す建物は殆ど残されていませんが、城北町の一画に海鼠壁に覆われた重厚な商家を初めとする複数の伝統的家屋が残されていました。
幕末には奥羽越列藩同盟の舞台となり奥羽越公議府が白石城に置かれています。
その後戦いは官軍の勝利に終わり、白石城には明治新政府が東北諸藩を監督する両羽三陸磐越按察府(あぜふ)が置かれました。
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