米沢の中心部より南東へ約5km。かつて「原方衆」として新田開発を行った米沢藩下級武士の集落で知られる芳泉町があります。町の名はもとの町名である六十在家町に設置された芳泉学校に由来します。
芳泉町は武家町とは言ってもその実は至って質素な農村集落です。江戸時代、会津120万石から米沢30万石に減封された上杉家は家臣の「六千士族」をリストラせずに養った為に極度の財政破綻状態にありました。
それを打開するため下級武士に半農藩士の「原方衆」として藩内各地の原野を開拓を命じ「諸士開き」という新田開発が行われました。
米沢の旧跡として紹介されていますが、実際に人が生活しており未公開です。
歴史知識が無ければ普通の農村集落と思ってしまいますが、生垣や門などにかろうじて武家屋敷の遺構を見ることができます。生垣はウコギ。庭に植えられた木は柿や栗とすべて食用になるもの。また池や用水路には鯉や鮒が飼われているなど奇跡的に財政再建を果たした米沢藩の徹底した合理政策が感じとれます。
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