玉庭は米沢市に隣接する川西町の南方、標高300mの玉庭盆地にある農村集落で耕地の92%を水田が占めています。
ここ玉庭も米沢藩政時代に「芳泉町」同様、下級武士「原方衆」200名が入植し新田開発を行いました。しかし米沢城下の芳泉町に対して、こちらは古くからの農村地帯であった為に、原方衆の入植に際しては在郷農民による反対運動やその後も係争が絶えなかったそうです。
区画整理され街村の形態をとる芳泉町と違い、散居したうえ生垣や門柱が見られないのは、完全に帰農化して融合をはかった為なのでしょうか。もっとも、どの農家が元からの農家でどれが旧士族かどうかは今となっては分かりません。なにせ200年近く昔の話ですから。
かやぶき民家は玉庭のメインストリートである県道から一歩入った谷地田地区や御伊勢地区にまとまっています。その他にも明才や馬場にもいくつか点在していました。
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