海のイメージが強い房総半島の内陸部。山を越え、また山を越え房総半島の奥深くに小さな城下町大多喜はあります。
豊臣秀吉によって関東に追いやられた徳川家康は、阿波館山城主・里見氏に対する防衛拠点として、大多喜の地に徳川四天王といわれた本多忠勝を入封させ、ここに大多喜藩10万石が成立します。
忠勝は新たに大多喜城を築き、城下町や房総街道を整備しました。
しかし関ヶ原の戦によって天下が統一され、房総の不安要素が排除されたうえに、長い太平の世が続くと大多喜の軍事的要素は失われ、以後大多喜藩は3万石以下の大名地と降格していきます。
とは言っても大多喜はこの安房地方における政治・経済の中心であることには変わりなく、慶長14年(1609)の城下の人口は実に1万2000人を数え、房総で最もにぎわう城下町だった言われています。
現在大多喜町のシンボル大多喜城は復元され県立南総博物館として、また大多喜駅周辺には古い街並みが比較的多く残されています。城下町特有の折れ曲がった桝形を残す房総街道沿いは、宿場町の面影が残り、酒蔵や旅籠が現役で操業しています。
また豪商渡辺家住宅付近には土蔵造りの街並みが続いています。
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