千葉のベッドタウンである佐倉は県内でも稀少な武家屋敷が残る町です。
戦国期に下総を支配した千葉氏がこの地に鹿島城を築いたのが始まりですが、完成を見ずに千葉氏は滅亡します。
関ヶ原の戦い後、徳川家康はこの地の重要さに目を付け重臣を配します。鹿島城は三方を急崖で囲まれ、残る南方も鹿島川が流れる要害堅固な城であり、江戸防衛の重要拠点として大規模な築城改修工事が再開されます。
工事を担当したのは、慶長15年に佐倉藩を立藩した土居利勝で、六年の歳月の後完成し、改めて城の名称を「佐倉城」としました。この改修工事と同時に武家町や城下町も整備し、城の周辺を「佐倉」城下町を「佐倉新町」と名付けます。
土居氏のあと佐倉藩は、松平氏をはじめとした幕閣を勤める譜代大名が歴任します。
現在、佐倉城址は公園になっていますが、谷を隔てた高台に武家屋敷の街並みが残っています。佐倉の武家屋敷は生垣に茅葺きの曲家という素朴な造りをしています。
一方、佐倉街道(成田街道)にあたる国道296号沿いの新町筋から蘭学通りには、関東特有の出桁造り古い商家が所々に建っていますが、痛みが激しいものも多く、修復される様子もなく今後の行く末が心配されます。
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