中仙道の宿場町として発展した深谷は、中世に関東管領執事を務めた上杉氏が北武蔵の拠点として深谷城を築き、その城下町として始まった。江戸時代に入ると松平氏をはじめとする譜代大名の統治の末、幕府領となり深谷城は破却されます。
深谷は当初、熊谷宿と本庄宿の間の宿として整備されました。しかし、間の宿とは言うものの、人口約2,000人、本陣1軒に脇本陣4軒を構え、80軒にも及ぶ旅籠屋が連る大宿場町に発展します。これは深谷が利根川水運と陸上交通の要衝でもあった為でした。
深谷のシンボル、JR深谷駅は東京駅を模した赤レンガの駅舎で、これ以外にも旧中山道沿いには伝統的な土蔵造りの商家や町家も多く残りますが、赤レンガで修築した建物が数多く見られます。
深谷地方は古くから瓦の製造に適しており、江戸期から瓦製造が行われていました。瓦の生産が本格化したのは明治に入ってからで、関東大震災を機に耐震性のある煉瓦や土管の需要が高ます。明治20年、深谷が生んだ天才実業家・渋沢栄一と益田孝によって日本煉瓦製造株式会社がこの地で設立されました。
|