鳩ヶ谷は鎌倉期からすでの奥州への街道筋(旧鎌倉街道)にあたり、室町期から3・8の日に六斎市が立っていました。鳩ヶ谷が日光御成街道の宿場町になるのは元和8年(1622)徳川秀忠の代。徳川家康が慶長5年に上杉景勝征討の際この道を通り、それが吉例であるとして日光造営の後に日光御成街道の宿駅制が整備されました。
江戸日本橋を基点に本郷追分で中山道と分かれ、岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻を経て幸手で日光街道もしくは奥州街道に合流します。鳩ヶ谷宿は江戸から3番目の宿場町で、あまりに江戸に近かった為に旅宿は置かれませんでした。しかし、舟戸家
(喜一家)が本陣と問屋を務め、岩淵宿と一ヶ月を半々に宿駅の役を務めました。
一方、芝川には舟運が開け、前田・辻・芝にはそれぞれ河岸が設けられていました。
鳩ヶ谷は近隣農村の物資集散地でもあり、享保16年(1731)には、長らく途絶えていた六斎市が再開されています。なかでも江戸から古着商や古物商が多く集まり、鳩ヶ谷の市はボロ市の名でよばれた時期もあったといいます。
鳩ヶ谷上町の丘陵から見沼通船堀の流れる坂下までの緩やかにカーブを描いた坂道沿いには、関東出桁造りと呼ばれる伝統的な商家建築が、都市化の波にさらされながらも数多く残される一方で洋風建築も見られるのが鳩ヶ谷の特徴でした。
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