埼玉県の東松山市は同県の中央部で、都心から約50kmの場所に位置しており、関越自動車道の大都市近郊圏の境界でもあります。古くからいくつもの街道が交差する要衝で、戦国期には城下町として発展、現在は東京のベッドタウンとなりつつある人口9万人の町です。
東松山という地名は、昭和29年の合併の際、四国の松山市と区別する為に「東」を冠称したものです。
中世、関東管領上杉氏と公方家の対立を突くように、小田原北条氏が関東へ進出を始めたころに土豪上田氏によって松山城(現在は吉見町北吉見)が築かれ、城下は比企郡の中心となります。城下では5と10の日に六歳市が立ち、やがて松山本郷(現在の本町・材木町)に
新宿を立て楽市を許すと共に、物資の流通を独占させて町を手厚く保護しました。
松山城の武士も町場では「町人衆」の支配に服することを定められます。一方で、町人には有事の際には末端の奉公人ですら軍務が課せられるという、徴兵制度が存在していました。
やがて徳川家康が関東へ入国すると、松山城には松平家広が1万石で入封し松山藩が成立しますが、2代忠頼が5万石で浜松へ栄転した事によって松山城は廃城になります。
その後川越藩領となりますが、旧城下町には松山道(熊谷往還とも)や日光裏街道を初め地域の諸街道が集まり、依然として宿場町、在郷町として繁栄しました。
さらに幕末になると、川越藩主である松平直克が、前橋へ移封となり、この地域の統治を行うために松山陣屋を設置。その家中及び関係者によって町の人口は2倍近くに増える事となります。もっともすぐその後に廃藩置県が行われ、武家支配は終焉を迎えます。
かつてこの町を発展させてきた交通網は町の中心をバイパス。そして現在この町を発展させる中心である東武鉄道の駅は、かつての中心から南に離れ、それを追うように繁華街が拡大と衰退を繰り返した結果、「中心」の無く密度の薄い町となっています。
往時の繁栄ぶりを偲ばせる建物も取り壊しを時代に任せ、探し歩いていくつかを見つけるほどしか残されていませんでした。
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