埼玉県北東部、東北自動車道・久喜ICがあることで知られる久喜市は、古くから街道が交差する要衝で、物資の集散地となり、江戸時代には米津政武1万2000石の陣屋町として発展した町でした。
もっとも久喜藩は5代藩主米津通政が陣屋を秩父の長瀞に移した為に廃藩となり、以後は幕府領として代官支配となります。享和2年(1802)関東代官として赴任した早川八郎左衛門正紀が久喜陣屋を置いて支配した。教育や治水に尽力しました。
江戸期の久喜は久喜本町・久喜新町・野久喜・古久喜の4町村からなり、陣屋は久喜本町に置かれていました。日光街道や常陸・下総方面への道が通じていたことから旅籠が建ち並び、産業の発達、物資が集散地し、本町で3の日、新町で8の日に六斎市が立ち、近郷農村の中心地へと発展しました。
かつての旧街道筋や町の中心は久喜駅の駅前繁華街に埋もれ、往時の面影はほとんどありませんが、江戸期創業の寒梅酒造を初め、地元旧家の重厚な建物がその近隣に残され、かろうじて往時を偲ばせていました。
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