現在の桶川市はさいたま市の北西、同じく中仙道の宿場町であった上尾に隣接する町で、コウモリが羽根を広げたような形をしています。
芝川、鴨川の水源があり、「興き川・起き川」が桶川の語源とされますが、正確なところは分かりません。
桶川は、慶長7年(1602)中仙道の整備によって宿場町になります。当初は34軒しかなかった寒村でしたが、幕末には347軒と拡大し、人口は1,444人。本陣1軒、脇本陣2軒で旅籠は36軒ありました。浦和宿の項で触れましたが、現在は埼玉県の県都となっている浦和も、当時は江戸に近すぎた為に宿場町としては地味な存在でした。
そして、この桶川がちょうど江戸を出発して日没に到着する宿場町であったのです。
桶川宿が大きく発展した背景のもう一つとして、綿花の集積地であった事が挙げられます。桶川一帯の綿花栽培は江戸期初期から盛んで、最上紅花に次いで全国第2位の生産量を誇っていたと言われます。また、その気候から最上地方よりも出荷が早く、5と10の日に綿花六斎市がかれ「早場もの」として取引され、さらに生産物である「桶川臙脂」大半は京都へ運ばれ、もう一つ繊維産業の欠かせない、「武州藍」と呼ばれた染料もまたこの地が産地であり、それらは江戸へと運ばれました。
明治になり、鉄道の発達により中仙道の宿場町もその役目を終え、桶川の繊維産業も輸入繊維や合成繊維によって幕を閉じました。
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