標高2000m級の山岳に囲われ奥秩父と呼ばれる大瀧村は、古くから秩父地域よりも国境を介する甲州や信州との関わりが強い地域でした。「甲武信:こぶしん」はまさに甲州・武州・信州の3国にまたがる山間地域をさします。
大滝村の最西端に山の急斜面にへばりつくように形成された「天空の村」栃本集落があります。この地域では古くから往来が難儀する集落の単位を「島・しま」と呼んでいました。この集落を島と呼ぶ単位は新潟県の山中にも見られます。
古くから甲州と武州を結ぶ旧秩父往還筋はこの栃本集落を通るのですが、この道の風景が日本の道100選にも選ばれています。
戦国期、この地域に金山が発見されると甲州の武田氏によって栃本関所が置かれ金山奉行の支配下になります。武田氏時代の栃本関所は金山監督の為の役所でしたが、江戸時代に入りこの地が幕府領となると、武州・甲州・信州を結ぶ秩父往還の要衝として関所の役割は強化されていきます。
陸の孤島である険しい山間の金山経営はやがて幕府から民間に委託されるようになります。かの有名な発明家、平賀源内も金山開発に携わっていました。
いくつもの難所を越え険しい山肌を縫う秩父往還道は、明治になり国道に指定され整備されます。その後中津川ダムの建設によって高規格のバイパスが建設され、さらに奥秩父と山梨塩山を結ぶ雁坂トンネルの開通により、栃本へのアクセスは容易になりました。バイパスは険しい谷間を橋梁とトンネルで貫通し、栃本集落が見下ろす遙か下を縫いながら山を挟んだ裏側を通り抜けています。その為旧道沿いの風景は何事もなかったかのように残り、集落では今まで通りの生活を送っています。
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