奇跡的にも見事と言える本棟造りの家並みが残る、広丘郷原地区は江戸時代に整備された北国西往還またの名を善光寺街道の宿場町でした。
中山道洗馬宿から北に分かれ、松本藩の城下町を経て長野善光寺へいたるこの道筋は藩政時代に整備されたものですが、戦国期の武田氏の時代からその基礎が築かれ、さらに古くは律令時代の東山道の道筋であったとも言われています。
大字の冠称である広丘という地名は明治の合併で生まれた村名を継承したもの。
古くから善光寺詣でや戸隠講などの参詣客でにぎわった”通称”善光寺街道は、江戸時代の慶長19年(1614)に松本城主小笠原秀政によって、中山道洗場宿と北国街道篠ノ井追分を結ぶ北国西往還が整備され、郷原宿はその宿場町として当時奈良井川東岸にあった上野の人々を街道沿いに移住させ形成されました。宿場町内の街道は直線的で、桝形や鍵の手などの曲折はなく、最盛期の家数も72軒と中山道の塩尻宿166軒、洗場宿163軒、本山宿117軒と比べるとはるかに少ないのも、公用利用の少ない脇往還だったからと言えます。さらに一般的な宿場町と違い、間口に対しての課税が無かった為か、本棟造りゆえの実に間口が六間以上の建物が多く見られるのが特徴で、その奥行きとさらに奥に広がる農地などからも、この集落が半農半商の宿場町であった事が伺えます。
郷原宿には正式の本陣や脇本陣はありませんでしたが、山城屋の屋号を持つ赤羽家を土地の人は本陣と呼んでいました。赤羽家は、郷原宿の西側にある大きな本棟造りの旧家で、藩政時代には松本領塩尻組の大庄屋も勤めた家柄でした。
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