平谷村は岐阜県と接する長野県の南西端に位置し、標高1,500m級の山々に囲まれた山村で人口わずか600人ほどの村です。村名の通り、木曽山脈の末端高原を柳川と平谷川が十文字に浸食して開けた谷に居住地が集まります。この十文字の谷間に沿って古くから街道が発達していました。
南北に縦貫する主要道の三州街道(伊那街道)に対する横の往来は、岐阜県上矢作村(当時は上村)を経て岩村へ至る上村街道が西に、売木・新野千石平を経て南信濃方面へ至る平谷街道(売木街道)が東に延びていて、現在の国道153号線と国道418号線がそれぞれを踏襲して交差する場所が村の中心市街であり、江戸期には宿場町が形成されていた場所です。
これらの街道は、戦国期に甲斐の武田信玄によって開発された棒道(軍用道路)で、三河進出のための伊那街道、及び美濃進出の為の上村街道の交差点沿いに平谷宿が置かれたのが始まりです。江戸時代には天領飯島代官所の支配地となり、信州と三河を結ぶ三州街道及び東西を結ぶ街道の要衝として栄えました。江戸中期ごろから盛んになった中馬稼ぎが山村農民の主たる収入源となったからです。
明治に入り、宿場制度は終わりを告げますが、郡道(旧街道)の改修によって馬車の通行が可能になり、さらに中央線(現・JR中央本線)が大井(恵那)まで開通すると、平谷宿は60台もの馬車を保有、主力は三州街道から岩村・大井への上村街道へとシフトしました。しかし鉄道網や自動車が発達する昭和中期ごろには平谷の輸送業は衰退していきます。
現在国道153号線の東側に弧を描いて残る、三州街道の旧道沿いに古い家並みを見ることができます。江戸時代の建物はありませんが、大正期以降から昭和初期の旅籠型の古民家が中心となっています。今なお旅館を営む家もありました。
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