中野市な長野県北部に位置する人口4万人弱の地方都市。
平安期より古代日野郷の中心地で、それが中野の地名の由来となります。
江戸時代になると、北信濃の天領6万石・130ヶ村を支配していた複数の幕府代官所を統合してこの中野に中野陣屋が設置されます。中野陣屋は中町から東町にかけて東西約86m、南北約64mの面積58ヘクタールの規模で、それを中心に中野の町は城下町の様に発展していきます。寛永年間には上中町、下中町、西町があり、その後東町へと拡張。
中野は古くから交通の要衝として発展した町でもあり、中野と飯山を結ぶ飯山道と中野と草津を結ぶ草津道が通り、飯山道は北国往還と北国脇往還(大笹街道)とも接続。海産物や穀物など物資輸送の大動脈であり、天保12年(1841)には千曲川通船の河岸場も設置されました。寛永10年(
1633)には市が開かれ、元禄年間(1688〜1704)には、1・4・7の九斎市にまで発展しています。しかし江戸時代後期には固定店舗へと発展していった事により、定期市は衰退していきました。
中野陣屋は明治になると廃止され、代りに『中野県』が成立して県庁が陣屋跡に置かれます。ここから北信濃の県都として歩み始めるはずだった中野でしたが、明治に起きた中野騒動と呼ばれる大規模な一揆によって、県庁を初め町は破壊され、旧松代藩兵による鎮圧によって終息したものの、県庁は善光寺門前であった長野村に移され、ここに『長野県』が誕生する事になります。
この「中野騒動」とは、長年天領の過酷な収奪に加え幕末のから明治にかけての社会的な混乱期が重なった事で農民の不満が一気に爆発しておこった大規模な世直し一揆でした。明治2年まで全国的を襲った凶作により、米価は上がる一方で、ニセ金が流通して貨幣流通は大混乱。さらに年貢は2倍・3倍にもはね上がり、日雇い・貧農・小作人などは窮乏生活を強いられ餓死寸前まで追い込まれるような状態となっていました。そんな中で旧幕府の天領だった中野県は豪農や豪商など特権階級から出資金を集めて高利貸し商社を設立します。これが領民の不満に火を付けました。
焼き払われたのは中野県庁だけでなく商社役員、富豪、豪商、など焼失家屋486軒、被災者1926人、周辺の40か村110軒余が被災。
明治政府は、直轄の中野県において発生した一揆を新政府に対する反権力破壊活動として徹底的に弾圧・粛正を行ったのでした。
北信濃の商都・中野は酒蔵の町でもあります
北信濃の商都・中野は蔵の街でもあります
中野陣屋(代官所)の町・中野は特権商人の町。蔵や屋敷が今も多く残ります
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