須坂藩の堀家は、豊臣大名だった堀直政の三男堀直重を祖とする支流で、関ヶ原の戦いの軍功で下総国香取郡に2000石を知行。同年信濃高井郡6000石を加増され、大阪の陣での働きにより4000石を加増されて諸侯に列し、須坂に陣屋を構えて須坂藩1万2000石が成立します。二代藩主堀直升の時に三人の弟に2000石を分知してからは1万石で十四代続いて明治を向かえます。
須坂には上田に通じる大笹街道(国道406号線)、松代道・小布施道(明治に新潟へ通じる谷街道)、草津道(後の山田道)などが交差する古くからの要衝でした。
須坂は1万石の小藩でしたが、須坂商人の基礎はすでに出来上がり商家町が形成されていました。 須坂の有力商人の大半は古くに帰農化したこの地域の支配者層であると共に、北信濃の大半を占める幕府直轄領(天領)に強大な権益を有していた為、藩の支配の外で財力を拡大させていったのです。
須坂商人は輸送経費のかかる北国街道や中山道など正規の街道を極力さけ、大笹街道をはじめとする裏街道を多用する事で、江戸へ向けた安価な物流体制を構築していきました。幕末から明治にかけて製糸産業全盛の時代に連動して須坂の町には豪商が軒を連ね、今に残る重厚な町並みが生まれたのです。
しかし国内製糸産業の斜陽とともに須坂商人も没落が始まり、伝統的な土蔵造りの町並みは取り壊されようとしていました。しかし、須坂の人々によって保存会が組織され、今日の須坂の町並みが残される事になったのです。
この町並みの中に建つ須坂の酒蔵「遠藤酒造場」の主屋は須坂藩邸の奥付門を移築したものだとか。日本一小さな酒蔵を謳っていますが、なかなか工夫を凝らした商品展開を行うとともに町並み保存に深く関わっている蔵でもあります。
|