城下町上田は古代信濃国の国府であり、塩田平は「信州の鎌倉」と称されるほど古刹が数多く残されています。また日本有数の温泉地として知られる別所温泉はその塩田平の奥に位置します。
戦国時代、甲斐の武田信玄の信濃侵攻で滅ぼされた海野氏の一族であった真田氏は、信玄に従い、この上田に城下町を築きました。
時は経ち、関ヶ原の戦いでは、上田城主真田昌幸は二男幸村とともに豊臣側として戦い、上田城を舞台に徳川軍を相手に奮迅します。
一方東軍に属し、父と弟の守る上田城攻めに加わった長男の真田信之は東軍の勝利によって真田家の所領を安堵され上田城に入封。ここに上田藩9万5000石が成立します。
この時信之は戦で破壊された上田城の修築よりも城下町の再建を優先しました。上田城の修築はその後入封した仙石氏によって進められ、同時に領内統治の為の行政機構や法の整備、地場産業の殖産・育成が行われていきます。
続いて仙石氏と入れ替わるかたちで、但馬出石から(藤井)松平忠周が入封し、以後幕末まで松平氏の城下町として続いて明治を向かえます。
降雨量の少ない上田では火災への備えが徹底した為に、目立つ大火が起きなく往時の街並みが残される「はず」でした。しかし明治2年の争乱により町家は焼失し、町割りだけが残されることになります。
現在残っている町並みは、明治以降に復興した旧北国街道筋の宿場町が中心で、土蔵造りの建物が多いことからもそれを示しています。
戦国時代のヒーローとして今も語り継がれている真田氏が上田を治めていた期間はわずか30年ほどしかありませんが、上田の町は真田一色です。
上田城内にある真田神社は、もともとは160年にわたり上田を治めた藤井松平家を祀る「松平神社」でしたが、明治を期に真田神社と改称されました。
真田人気に加え、明治政府による旧徳川色を一掃の思惑もあったのでしょう。
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