佐久地方の南端部、山梨県と接する南佐久郡南牧村には佐久甲州街道(佐久甲州脇往還)9宿のうち、「海尻宿」「海ノ口宿」「平沢宿」がおかれていました。海ノ口宿と平沢宿の間に広がる野辺山原は約12kmにわたる無人の荒野で、旅人及び物資の輸送を難渋させた佐久甲州街道の難所でした。慶長11年(1606)に幕府は旅人を救護するために、周辺の村より村民を野辺山に入植させ、どれだけ開墾しても無年貢とし、茶屋を数カ所に設置しました。
長野県側最南端の宿場町であった「平沢宿」は現在ほとんどその遺構を残していませんが、かつて問屋が置かれていた「海尻宿」と「海之口宿」にはわずかながらも、往時を偲ばせる家並みが風景が残されていました。
海尻宿の享保年間の家数は81軒で人口は298人でした。
ちなみにJR海尻駅は標高1,035mで、JRの駅の中で8番目という事らしいですが、
この海抜1,000m級の土地に「海」のつく地名が多く見られるのは、かつてこの一帯に湖があった事に由来します。
今から約1100年前の平安時代。仁和三年(887)の大暴風雨により八ヶ岳が大崩落。この崩れた八ヶ岳の泥流によって塞がれた千曲川と、その支流の相木川にそれぞれ大小2つの天然のダム湖が誕生しました。小さな湖は「小海」と呼ばれ、その名は今に残されていますが、大きな湖の方はまったく記録がありません。しかしこのダム湖は約120年も続いて、平安時代後期の寛弘八年(1011)に大崩壊し、下流に甚大な被害をもたらしながら消滅します。
この天然のダム湖に千曲川が流れ込こんだ場所が「海ノ口」、反対側の湖の水の流出部が「海尻」と呼ばれた由来です。
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