一路一会古い町並みと集落・甲信越>新潟>佐渡・相川

相川
あいかわ
 佐渡金山の町・天領佐渡の中心都市
 新潟県佐渡市相川【旧・相川町】2004年合併
 下町地区:海女町・下戸炭屋町・羽田村・馬町・四丁目〜一丁目・羽田町・塩屋町・石扣町・材木町・小六町・濁川町・紙屋町
商家・町家・古民家・代官所・土蔵・レンガ塀・洋風建築  各所公共P 新潟交通佐渡バス本線
 下町(港地区)
濁川沿いの家並み(相川濁川町)
 
相川町は佐渡島の北西海岸及び大佐渡山地の北側を締める町で、佐渡北西部における行政の中心地でもあります。

江戸時代には天領となった佐渡を統括する佐渡奉行所が置かれ、佐渡の中心都市として最盛期の人口は10万人を越えたと言われていますが、現在は1万人を切りなお過疎化の勢いは止まることがありません。明治に佐渡県が置かれると県庁所在地にもなりましたが、町制から市政へ移行する事なく平成の合併を迎えます。

佐渡金山の経営は幕府から明治政府へ、そして民間に払い下げられ三菱の経営(現在は三菱マテリアル)となります。埋蔵する金銀はまだ枯渇している訳ではありませんが、採掘精製のコストと金銀の値段が逆転している為に、現在は休眠しています。しかし金山は佐渡の代名詞とも言える観光資源もあって、多くの観光客が訪れると共に、この相川町には佐渡を訪れる観光客の約半数が宿泊しています。

相川が佐渡の中心地となるのは、佐渡が幕府の天領になってからの事です。佐渡代官として赴任した大久保長安は佐渡奉行所を相川湾を眺望できる台地上に建設し、町づくりも行います。奉行所周辺の台地上の町を上町、海岸沿いの南北約2kmの区域を下町と呼び、ふたつの町域の間、台地の中腹には寺町が形成されていきました。慶安5年の地子銀帳にはじつに89町もの町が記載されています。

鉱山労働者の住む大工町、床屋町。食糧関連を営む米屋町、八百屋町、四十物町、塩屋町、味噌屋町。生活物資を営む炭屋町、紙屋町、板町。その他茶屋町、奈良町柴町や材木町、などなど城下町にも匹敵する町人町の構成です。

上町には「上相川千軒」と呼ばれた”小都市”またがあり、最盛期の10万人と言われる人口を支えた相川の港町は、金山事業に関わる物資の他に、生活必需品や食糧などが全国各地から運び込まれ活況を呈します。

現在も海岸地区には豪商の屋敷が残ると共に、南北に連なる町の規模に往事の繁栄の姿を感じ取る事ができます。町の北端にはかつての遊郭街であった水金町(みずかねまち)があります。享保2年(1717)に相川の中心から水金川沿いに移転された町で、十一軒の遊郭があったと言われています。しかし現在は建物の基礎部分がその遺構として残る程度で、そこに町の歴史を説明する案内看板が立てかけられていました。町としては、というよりも住民としてはあまり触れたくない歴史なのでしょう。
 
紙屋町で下町は終わり、ここから北へ300m行くと水金町がある
材木町付近の家並み
相川二丁目付近から南には伝統的な家並みが続く
 
 
 
下町で最も大きな商家(相川三丁目浜町)
上町から下町の町並みを眺める