市川大門という地名に引かれて町を訪れた。大門というからには門前町かというとそうでもない。確かに一宮浅間神社はあるものの大門はふつう寺院を指す。町の歴史を見ると平安時代には天台宗の平塩山白雲寺の支坊が100を数えたというから、そのころ付いたものか。いずれにせよ市川大門は武田信玄の戦国時代から宿場町として栄えた町で、甲斐源氏発祥の地とも言われ、その時代に和紙の技術が持ち込まれ今に続く和紙の里となっています。
現在も障子紙の全国シェア40%を誇る市川大門。美人の肌のように美しい事からその名が付いた「肌吉紙」は武田氏の時代から徳川家康の時代も保護され、名字帯刀と諸役免除を許された特権紙漉集団「本衆」または「肌吉衆」を輩出する。そして「本衆」を中心に漉き手の家は250軒にも及んだと言われています。
元禄〜享保年間ころに紙工・甚左衛門の命日に打ち上げられた事に始まる市川大門の花火はその後も引き継がれ、三河吉田・常陸水戸とともに日本三大花火の一つに数えられるほどに成長したとか。
駿州往還の他中道往還へ通じる脇道もあった市川大門宿は交通の要衝であると共に周辺地域の商業的中心地。当然酒造業も盛んでした。現在「今昔通り」と呼ばれる商店街に残る二葉屋酒造店は、創業明治34年と後発ながら唯一残る酒蔵で、丁寧な地酒を造る蔵として知られています。
歌舞伎役者、初代市川団十郎の出身地だというのは後で知った話。
古い町並みはほとんど残されてはおらず、所々に塗籠造りの商家が見られる程度なのが残念。いずれも明治〜大正期の建物だと思われます。
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