一路一会古い町並みと集落・甲信越>山梨>鰍沢
  鰍沢
かじかさわ
 富士川舟運最大の河港町・南巨摩郡の政治行政の中心地
 山梨県南巨摩郡鰍沢町

 構成:商家・町家・酒蔵・武家屋敷・土蔵 ■ 駐車場:なし
 
 
鰍沢町は甲府盆地の最南端に位置し、富士川流域にあたる河内地方の入口の町。
またこの地で笛吹川、釜無川が合流して日本三大渓流の一つである富士川となります。
江戸時代、数々の大事業を成功に導いた事で知られる大久保長安は徳川家康に富士川舟運の利便性を提案し、慶長12年(1607)富士川開削を京都の角倉了以に命じて事業が開始されます。本格的な舟運の開始は同19年からで、河岸は鰍沢の他に青柳と富士川を挟んだ対岸の黒沢に置かれ、これらは三河岸と呼ばれました。その中のが中心が鰍沢河岸でした。鰍沢河岸はおおよそ100隻もの舟を有し、幕府の米蔵の他信州諏訪藩・松本藩の米蔵も並んだといわれます。
甲州・信州から集められた年貢米や廻米は陸路でこの鰍沢河岸に集められ、舟積みされて富士川を下り駿河から海運で江戸に運ばれました。また帰りの舟は駿河から塩や海産物を積んで川を上り、鰍沢から陸路で甲府や信州へ運ばれました。
一大流通拠点として繁栄した鰍沢でしたが、大正9年に開通した富士身延鉄道(現JR身延線)による鉄道輸送によってその長い歴史に終止符が打たれます。

水運業に関わった多くの者は職を失い、北海道を初めとする他の地域に移り住み、
商工業者は地元商店街を形成して商いを続けました。
鰍沢本町には漆喰に海鼠壁の商家建築がまだいくつか残されていますが、これらは恐らく河岸終焉後に形成された町並みではないかと思います。また、伝統的な様式の建物が国道の東側に多く見られるのは、自動車社会を迎え道路を拡幅する際に西側の建物が取り壊されたものと推測されます。富士川水運は内陸部の甲州に多くの文化をもたらしましたが、中でも伊豆半島から伝わったと言われる海鼠壁は、この富士川流域で見られる屋根の妻面への装飾のように独自の発展を遂げています。