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旧脇本陣の須賀家
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中山道宿場町として知られる倉賀野の形成時期は古く、鎌倉期にはすでに信州へ通じる街道筋に宿が形成されていたといいます。また武蔵から上野に入る軍事的要衝でもあった為に、戦乱の際はしばしば陣所となっていました。
江戸時代に入ると中山道整備にともなって倉賀野も宿場町となるとともに、日光例幣使街道の追分け宿として発展しました。
また利根川支流である鳥川沿いには河岸が設けられ、利根川舟運の折り返し地点の大河岸となります。船積問屋米宿は11軒、所有する船舶は最盛期には100隻以上にも及び、廻米の顧客諸藩は42家にも及んだと言われています。
倉賀野宿は 本陣1・脇本陣2があり問屋場は3ヶ所に置かれ、旅籠は64軒の他に商店も数多くありました。
しかし明治になり高崎線倉賀野駅が開通すると、その機能を奪われ河岸も宿場も衰退していきます。特に倉賀野宿にとって河岸の閉鎖は相当なダメージだったといいます。国道17号バイパスが宿場町の外側に建設されたのは近年になってからの事で、宿場の中心部には旧脇本陣・須賀家の建物を除いてほとんど何も残されていません。日光例幣使街道との追分け付近には伝統的な建物が数軒残されていますが、おそらく明治以降に建てられたものと思われます。
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日光例幣使街道追分け付近の町並み |
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