三国街道は佐渡往還とも呼ばれ、大名の参勤交代の他、佐渡奉行が管理する幕府の重要な財政基盤である佐渡の金・銀の輸送路でもありました。
慶長14年、三国街道は道中奉行の管轄となります。これは現在で言えば地方道が国道に昇格した事と同じであり、この街道の重要度を意味しています。
新治村の村域には当時、下新田・今宿・布施・須川・相俣・猿ヶ京・永井の7宿が設けられていました。険しい三国峠を控えた最後の宿場である永井は多くの旅人で賑わいましたが、明治に入り現在の国道17号にあたる新道が相次いで整備され交通の便が良くなると、須川や永井などかつての宿場町は取り残されていきました。
新道が山を開削し、谷を越え、かつての集落を大きく迂回して建設された為に、果三国街道沿いの古い街並みが残る結果となりました。
長井宿でかつての旅籠を務めた家々は今も民宿を営んでおり、宿泊すれば建物の中を見ることができます。
|