現在「官営富岡製糸工場」の世界遺産登録へむけて市民と行政が一体になって運動が行われている富岡市。
慶長17年、幕府代官中野七蔵は中山道脇往還(下仁田道)沿いの瀬下に新町の建設を計画、中世城下町の基礎があった宮崎村の住民に新町を商業町へ発展させる旨の約束を取りつけ、町の機能と住民を移住させて成立しました。富岡には新町建設の際に宮崎村の住民との約束であった問屋屋敷4軒と砥沢村(現上野村)から産出される砥石問屋の砥蔵屋敷3軒が設けられ、在郷町として発展していきます。
慶長5年(1600)徳川家康と本多正信がニセの「家康暗殺事件」を画策し加賀前田家に謀反の嫌疑がかけられます。しかしそれを解消させるため加賀藩主前田利家の妻である芳春院(まつ)は自ら人質となり、五男前田利孝と共に江戸に人質として下りました。この前田利孝が大阪の陣には秀忠に属して出陣しその功により、上野七日市に1万石を与えられ、上州唯一の外様藩として七日市藩が成立します。
小藩である事や領内を襲った大飢饉などにより、加賀藩の財政的援助を受けて存続していた小藩でした。七日市陣屋は現在県立富岡高等学校となっていいます。
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