江戸時代「入り鉄砲出女」を厳しく取り締まった中山道随一の嫌所である横川関所と、中山道随一の難所と呼ばれる碓氷峠がここで2つ連続します。
坂本宿はその2つの難所の間に設けられた宿場町で、 もともと人家の少ない原野を開発し、近隣の村々はおろか安中や高崎城下から人々を移住させて宿場町が建設されました。宿場の中央には幅4尺の水路が流れ、南側は往路、北側は還路と通行分けがなされ水路には17の石橋が架かっていたと言います。
南側の建物は道路に対し少し斜めに北を向いて建てられています。これは裏鬼門の方角を避けるためのものでした。
宿場は上宿・中宿・下宿に分かれ、本陣2軒の上本陣・佐藤家と下本陣・金井家いずれも中宿の往道にあり、脇本陣2軒は還道に置かれました。(文久年間の脇本陣は4軒)旅籠は大小合わせて55軒もあり、多くの旅人が次の松井田宿よりも坂本宿を利用していた事が伺えます。
坂本宿には多いときは40藩以上の大名が通行し、特使・要人なども多く利用しましたが、支出や手間の方が多く宿場の経営は厳しかったといわれえています。
横川は現在「峠の釜飯」がランドマークとなり、ここで明治に作られた新道の国道18号線と戦後に新しく作られた碓井バイパスに分岐します。碓井バイパスの無料共用後はバイパスが本線となりましたが、国道の旧道も観光名所が多く通過する車両は少なくありません。
坂本宿は旧道側にあるのですが、碓井峠へ向けて長い直線道路のうえ、かつて宿場の中央を流れた水路が埋められ、幅広い道路が確保された為か、おそらく通過車両の走行速度は高く、集落規模の割には横断保道に信号機が設置され、歩道がガードレールによって分離されています。
この道は夜通る事が多かったので、かつての宿場町であった事などまるで気が付きませんでしたが、往時を偲ばせる建物も僅かしか残されていないのも事実です。
しかしこの集落には、宿場町時代の独特な遺構がいくつも残されています。
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