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  玉村
たまむら
 日光例幣使街道で最も栄えた宿場町
  群馬県佐波郡玉村町上新田・下新田

 構成:商家・町家・酒蔵 ■ 駐車場:商店街P
 
 

慶長年間に伊奈氏が荒れ果てた原野を開発して玉村新田町と称し、後に上新田・下新田両村に分村します。その後両村で玉村宿を形成しました。当時は脇往還のさびれた宿場町でしたが、明和年間に日光例幣使街道が道中奉行の管轄下に入ると、玉村は中山道倉賀野宿から分岐した日光例幣使街道の第1番目の宿場町に指定され、以後幕末まで繁栄を手にします。本陣は木島家、問屋場は上新田・下新田に1軒ずつあり交代で務め、旅籠屋は62軒。うち36軒の宿に飯盛女がいたといいますが、その数は当街道最大規模でした。次第に玉村宿は宿場町から歓楽街へと変わっていきます。

玉川宿が大きく発展した理由は日光例幣使街道ともうひとつ南北に縦断する佐渡奉行街道の宿場町でもあった事があげられます。佐渡奉行街道は毎年春から秋にかけて佐渡送り囚人が護送され、当宿には十数軒の囚人宿もありました。これは宿場に大きな負担でありましたが、さらに囚人預りに加え、関東取締出役や火付盗賊改など役人宿泊費用も宿場に多大な負担をしいていました。安政3年(1856)問屋が取り扱った御用回数の実に3割が関八州・火盗改め関連と言われています。幕末に捕縛された国定忠治の取り調べもこの玉川宿で行われています。
このような事もあり、玉村宿は風紀の乱れや青少年への悪影響を幾度と取りざたされてきましたが、公儀御用の役も負っている宿場経営の為に黙認されていたのかも知れません。これが、後に公娼廃止運動に繋がり明治の時代に早くも、全国初の廃娼例を布いた町となりました。

玉村宿は幕末から明治にかけて幾度もの大火で全焼した為に、宿場町を偲ばせる建物は残されていません。しかし、わずかに残された明治・大正期以降の建築物と2軒の酒蔵が宿場町として栄えた時代を今に残していました。


 
 
玉村町の酒蔵          
清酒 ふじ泉 井田酒造 群馬県佐波郡玉村町大字上新田1626 0270-65-2007    
清酒 太平人 町田酒造店 群馬県佐波郡玉村町大字下新田619 0270-65-2050