霞ヶ浦に面した小川町。あまり聞かない町名ですが航空自衛隊百里基地の名をあげれば、おおよその場所が分かる人は多いのではないでしょうか。
古くは「小河郷」と呼ばれ鹿島神宮の社領であると供に、地頭の下河辺氏の支配地域でもあり、下河辺政平はこの地に小河城を築いて以後小河次郎を称します。
その後戦国期を経て佐竹氏の支配。関ヶ原の戦い後に佐竹氏は秋田へ移封され、戸沢氏の領地を経て幕府領となり、最後は水戸藩領に属します。
まだ外洋航海が困難な時代、小川は水戸藩における霞ヶ浦・利根川水運の重要な外港となり、定番が置かれ繁栄を誇りました。しかし、奥州〜銚子に開かれた外洋ルートが始まると小川は急速に衰退していきました。しかし、水戸藩は依然として小川を利用します。小川港の役割は明治に入っても細々と続きましたが、鉄道の開通によってついに幕を閉じます。
昭和に入り戦争が拡大していくと隣接する橘村・白河村にまたがる広大な「百里原」には海軍航空隊百里分遣隊が置かれ、小川町も活気を取り戻します。
県道が旧町場を迂回した為に、旧道沿いの約1kmに渡る街並みは残りました。
時代と供に古い商家などは徐々に姿を消しつつありますが、小川の土蔵街として紹介もされているため、多少の保存事業は行われているものと思います。
街並みで最も見応えがあるのは、やはり造り酒屋の伊能酒造店で、本陣を思わせ重厚な屋敷構えをしています、さらに醤油醸造の幡谷本店付近の土蔵街、JA小川を過ぎた当たりから連なる商家の街並みなど、よくぞ残ったものだと思いました。
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