霞ヶ浦に面した土浦は律令時代から「大津郷」と呼ばれ霞ヶ浦水運の要衝でした。
戦国期に若泉氏によって低湿地地帯だった土浦郷に城下町の基礎が築かれます。
関ヶ原の戦い後、藤井松平信一が土浦3万5000石を拝領し土浦藩が成立します。この時から土浦城と城下町の本格的な造成が始まりました。また幕府の命令で城下を水戸街道が貫通、土浦宿が設けられます。土浦宿は水戸街道沿いの旅籠と田町川沿いの船宿に分かれ、水戸街道沿いには問屋町や商人町が形成されました。
その後、幕府の重職を担う譜代大名家が度々入れ替わり、最後に土屋氏9万5000石の城下町として10代世襲し明治を向かえます。
土屋氏は醤油の醸造を保護奨励し、当時は19軒もの醸造場が城下にありました。
その中で 大黒屋の「キッコー大」は将軍家御用達。「キッコー」とは土浦城の別名「亀城」から取った商標ですが、その後醤油ブランドの代名詞となりました。
城下町から在郷町へと発展した土浦市街の旧水戸街道沿いには、今も多くの土蔵造り商家が残っています。
しかもその多くは明治以降の建物では無く、なんと江戸中期に建てられたものとか。ただし、あまり街並みが連続していないのが惜しまれます。
土浦市街の外れにある真鍋は水戸街道に宿場町でした。古い街並みは比較的良く残っているのですが、郊外への抜け道となっているため交通量がかなり激しく、街並みへの影響が心配です。かつて問屋か本陣を務めたであろう豪商の屋敷もありました。
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