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武茂川と那珂川の段丘部にある馬頭町は水戸と黒羽をつなぐ黒羽往還と棚倉街道が合流して関街道へ通じる交通の要衝で、諸産物や年貢米の中継地として発展しました。
また、那珂川とその支流である武茂川・矢又川が合流する河川交通の要衝でもあり、
陸路・舟運の接点の町として繁栄しました。
町の東側に残る桝形が宿場町の名残を偲ばせています。町並みの中にある2軒の酒蔵は廃業しているかのような荒れ具合でした。伝統的な建物は意外に点在しており、現在商店街の景観整備にあわせ、伝統的様式での修景作業も行われていました。
古代、この地域は武茂(むも)郷と呼ばれ、宇都宮氏士族の武茂氏と松野氏によって支配されていました。戦国期になると両氏は佐竹氏の旗下に属しましたが、関ヶ原の戦い後に佐竹氏が秋田へ移封されると、水戸徳川家の領地となります。
馬頭町の地名については、水戸藩主徳川光圀がこの地の寺社を修営した際、当地にあった十林寺・馬頭院(本尊・馬頭観音)にちなんでここを馬頭村と改めたという説があります。
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