古くより益子を支配した豪族益子氏は南北朝の動乱期に宇都宮氏の家臣として参戦、歴史の表舞台に登場するも、戦国期の宇都宮家内紛のなかで滅亡します。
江戸時代に入り、現在の益子町中心部が黒羽藩領となります。
益子焼は江戸時代末期の嘉永6年(1853)に大塚啓三郎が笠間で焼きものを学び、益子村根小屋で築窯したのが始まりで、黒羽藩の御用窯としての保護を受けて急速に発展しました。
益子は材料である陶土や水だけでなく、燃料の松薪などが入手しやすく、また窯に適した傾斜地が多い事など、焼き物の里としてきわめて恵まれた環境がありました。
焼き物製造は明治後半にピークを迎え、海外へも輸出されるようになりましたが、粗製乱造によって信用を失い、県をあげて品質向上に努めるも、不況の影響で大打撃を受け衰退の一途をたどります。
昭和に入り人間国宝浜田庄司氏によって、多くの陶芸作家が益子の地に集まり、かつての工業陶器の窯は作家のアトリエへと変わり「新しい益子焼」が再び脚光をあびる事になりました。
益子の町では、電線の地中化や景観の整備が行われ再び活気を取り戻しつつあります。
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