栃木市の北側、黒川と小倉川の合流点にある台地上に形成された壬生町。
その名から新撰組をイメージする人もいるかと思いますが、古くは京都の公家小槻氏の流れをくむ壬生氏がこの地に壬生城を築いたのが始まりでした。壬生氏は天正18年秀吉の小田原攻めの際、小田原北条氏に最後まで与同したために滅ぼされます。
その後当地は下総結城氏の支配を経て、江戸時代には3万石前後の譜代小藩として続き、最後は鳥居氏3万石の城下町として8代続いて明治を迎えました。
当時の壬生城下は表町と通町から成り、各町の問屋を営む名主が10日毎に宿の当番を務めました。町の中央を南北にはしる壬生通りはが日光西街道で、この道筋に宿場町が発達します。また黒川沿いには5カ所の河岸が設けられ、壬生は重要な河港町・市場町として人や物資が集散しました。
日光西街道は江戸〜日光間において、宇都宮経由の街道よりも近道であったために、古くから往来があったといいます。日光に家康廟の造営が始まると、建設物資の輸送路として使われ、その後御社参街道としての整備が始まり、やがて将軍家が利用する日光御成街道へと昇格します。
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