栃木県南東部の町真岡は「真岡木綿」で栄えた城下町でした。
中世に宇都宮氏の家臣清原高澄が芳賀氏と名乗り真岡城(舞丘城)を築いたのが始まりで、関街道の通る城下町は宿場町としても発展しました。
江戸時代に入ると浅野氏2万石の真岡藩が成立。続いて稲葉正勝が4万石で入封しますが、8万5000石に加増され相模国小田原に転封したのにともなって真岡藩は廃藩し幕府の真岡陣屋が置かれました。ちなみに稲葉正勝の母は将軍家大奥の基礎を築いた春日局その人です。
「真岡木綿」は名代官と称された竹内直温によって綿花の栽培が奨励されたのに始まります。しかし当事の真岡にはまだ木綿を扱う問屋がありませんでした。安永2年になってようやく豪農小宅喜兵衛が「渋川屋」を興し、木綿の集荷組織としての買次問屋を組織。さらに江戸や京都など全国を行商してまわり「真岡木綿」のブランドを不動のものにします。
真岡木綿は一時期関東木綿流通の77%のシェア占めましたが、やがて安価な足利木綿にその座を奪われ、さらに横浜開港によって輸入された外国木綿により衰退の一途をたどりました。
現在真岡にには、いずれも木綿で財を成した豪商の屋敷が複数ある以外に町並みというほどのものは見られません。しかし一部公開されている豪商の重厚な建物からは当時の繁栄ぶりが伺えます。町の中心部には2軒の酒蔵がありましたが、うち荒町にあった竹村長左衛門商店は廃業して跡形もなく、今は建て売り住宅に姿を変えています。旧関街道沿いは飲んべえ横町として賑わった風景が、今は遺構として朽ち果てつつあり、その一画にもうひとつの酒蔵である辻善兵衛商店が今もひっそりと操業していました。
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