栃木県北部、那須地方の中核都市である大田原は、江戸時代に城下町としてまた奥州街道の宿場町として発展した町でした。
那須扇状地の扇単部に位置すために湧き水に恵まれ、現在も古い町並みは僅かに残る本町と住吉町には醤油醸造蔵や酒蔵の姿が見られます。
大田原宿は奥州街道の他に東北から日光へ通じる日光北街道、さらに塩原街道も交わる交通の要衝でした。奥州街道は城下でL字に折れ曲がり北へ抜けます。現在の主要地方道・大田原氏家線と大田原高林線がその道筋にあたります。
宿場の内訳としては
本陣1軒・本陣兼問屋1軒・脇本陣1軒・旅籠屋42軒。本陣2軒は上町と中町に、脇本陣は中町にあった他、毎月2・7の日に六斎市が開かれていました。大田原の街路は城下町特有の鍵形が多く見られ、随所に寺社が配されています。
城下町としての大田原は小藩ながら、中世に始まり江戸期を経て明治まで一貫して続いた数少ない大名家の1つであり、さらに家名と地名と藩名が同一であるというのも非常に稀なことです。
大田原氏は戦国時代に那須氏の有力な家臣であった大俵氏に始まります。大俵氏は後に大田原と改めますが、その後の運命を決定づけた出来事が豊臣秀吉による小田原攻でした。この時どちらに付くかで内紛状態にあった那須本家を尻目に大田原晴清はいち早く豊臣秀吉の元に駆けつけ所領を安堵されます。その後さらに加増されて1万2400石の大田原藩が成立しました。1万石クラスの小大名は通例では無城(陣屋)ででしたが大田原氏は城主の扱いを受けています。さらにそれは江戸時代も引き継がれ、実に14代、270年にわたりこの地に在封し明治をむかえています。
ちなみに大田原の一つ手前の宿場町である佐久山宿。温泉が湧くこの小さな宿場町は交代寄合の旗本福原氏の陣屋町でもありました。福原氏もまた那須氏一族でしたが、小田原攻めの際にいち早く秀吉側に付き、所領を安堵されました。
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