栃木県中東部にある氏家は奥州街道の宿場町として発展しました。
町の歴史は宇都宮氏の分家である氏家氏によって勝山城・馬場城が築かれたことに始まります。
江戸時代に入り奥州街道が整備されはじめると、氏家はその宿場町として発展。さらに原街道、会津中街道にも直結し日光街道にも通じる交通の要衝で、本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒、旅籠屋35軒のほか茶屋や往還商いが立ち並ぶほどの賑わいだったと言われています。
また氏家の南西にあった阿久津は鬼怒川の終点河岸として、東北諸地域からの物資の集積地となりましたが、明治に入り鉄道の開通に伴ってその役割を失い衰退します。
現在、国道4号と293号が交差する地域に市街地を形成していますが、もはや往時の面影はまったく残されていません。しかし氏家郊外の奥州街道筋には武家屋敷を思わせる名主級の屋敷が多く見られます。明治の氏家は明治天皇の東北巡幸及び陸軍大演習の際の宿泊地となっていました。桜野の街道筋でひときわ目を引く和洋折衷のいかにも明治期らしい建物が旧滝澤邸で、明治天皇の休息所となる際に専用の部屋が増築されました。
氏家には栃木県最古の創業といわれる千禽酒造が馬場地区にあります。馬場は氏家宿の助郷でしたが、氏家宿の北口に位置するため会津中街道や原街道が村内を通過するために問屋に半里塚が設けられ、氏家宿の一翼を担っていました。村民も荷駄の運賃による農外収益を得ており馬場宿とも称されていました。馬場の地名の由来は今宮大明神の社頭で流鏑馬の神事が行われた事にちなむといいます。
|