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  疋田
ひきだ
 敦賀と京を結ぶ街道の追分宿・水運計画の遺構がのこる宿場町
 福井県敦賀市疋田

 構成:古民家土蔵・旧琵琶湖疎水 ■ 駐車場:JA駐車場
 
 

敦賀市郊外、琵琶湖方面に下って約7kmほどの場所で国道8号線が国道161号線と分岐する場所に疋田集落はあります。疋田は江戸時代に塩津道と西近江路が合流する追分の宿として賑わい、小浜藩本陣も置かれた郡内最大の宿場町でした。
日本海の海運大動脈であった「北前船」は、航海技術の発達に伴い瀬戸内海を経由して大阪へ直接乗り入れる「西廻り航路」が開発されるまでは、日本海沿岸地域の港で諸物資を下ろし、その後は陸路で太平洋側の地域へ運ばれました。
それ以前の時代においては、北陸・東北地域からの諸産物を京の都や大阪へ運ぶ物流は、敦賀や小浜で陸揚げし、陸路で琵琶湖まで運んで、そこから水運で大津を経由して運ばれるルートが用いられてきました。逆もまたしかりで、琵琶湖の東岸と西岸を結ぶ2つの街道が合流する疋田の賑わいぶりは相当なものであったと想像できます。
いつの時代も物流に求められるのは大量輸送と速さであり、敦賀と琵琶湖を結ぶ舟運計画の立案は平安時代から考えられていました。平清盛にはじまり豊臣秀吉も計画に着手していますが、日の目を見ることはなくそれは江戸時代になっても幾度も降って湧いては立ち消えの歴史でした。技術的要因の他、地元の反対が大きかったようで、
しかし、ついに日の目を見る生き金となったのは、当時日本海に出没する外国船の存在で、京の食料を運ぶルートの安全確保の為に、「琵琶湖疎水計画」が具体化し、幕府と小浜藩の手で着工される事になります。水路は敦賀から疋田までの区間で開通しますが、川舟運送に荷物を奪われた馬借座の反対により短期間で廃止へ追い込まれます。見通しの甘い公共工事の先駆けのような事例です。
さらに追い打ちを掛け、先ほどの大阪港直接乗り入れが行われると、疋田は急速に衰退し、さきに水路事業に反対した馬借座も職を失ってしまいました。

現在の疋田の町並みにも舟川の流れは残されています。幅は6尺(約1800mm)ほどで舟溜なども再現されていますが、とても高瀬舟が行き来したとは思えません。
文献ではなるほど9尺はあったといいますから、車道確保の為に狭められたのでしょう。各地の宿場町に見られる防火用水路の佇まいは確保されています。
伝統的な商家や町屋はほとんど残されていませんが、当時の区画のまま旧道と水路に沿って軒を連ねる落ち着いた家並みは、遠い昔様子を偲ばせてくれます。