古くから都に食料を貢ぐ御食国(みけつくに)だった小浜は、大陸と結ぶ玄関口でもあり、多くの大陸文化がこの若狭小浜から日本に上陸しました。
「海のある奈良」と呼ばれるゆえんはその寺社の数。約130を越えると言われる古刹の多くは奈良から平安期に建てられた歴史あるもの。
江戸時代に入り近江大津より9万2000石で入封して小浜城主となった京極高次により近代小浜城下町の整備が始まりますが、京極氏の転封後、武蔵川越より11万3000石で封じられ、
幕末まで小浜を治めた酒井氏の時代にようやく完成しました。
小浜城は北川と南川にはさまれた扇状洲である竹原(現在の城内地区)に建てられ武家屋敷もその周りに配置されました。この武家地区を雲浜(うんぴん)地区といい、南に位置する商工業の町である小浜地区と北に位置する漁業の町である西津地区からなり、町場は52町に分けられました。
耕地に恵まれなかった小浜は早くから海運業に進出し、小浜の廻船は越前から東北、北海道まで商圏を広げ、数多くの豪商を輩出しましたが、やがて下関から瀬戸内海を経由して大阪へ直接乗り入れる西廻航路が発達すると、日本海沿岸の港は衰退し、小浜もまたその例外ではありませんでした。
現在も若狭の中心地である小浜は都市化が進み、小浜駅より西側は宅地化も進んでいますが、海側の地域と旧丹後街道が通る街道筋には往時を偲ばせる家並みが数多く残されています。
小浜地区の東側から、室町期に役所が置かれた貴船区、北前船で栄えた時代に遊郭が置かれ今も料亭などが残る「三丁まち」の飛鳥区、八幡神社の門前である男山区、丹後街道沿いに商工業の町として発展した飛鳥区・鹿島区・白鳥区、駅前商店街を形成している酒井区、かつて海の玄関口であった塩竃区・津島区。
さらに小浜城の北側、西浜地区は古くからの漁港の町であると共に、若狭塗箸の生産地としても知られ、塗り箸のシェアは全国の8割を締めます。雲浜、堀屋敷はかつての武家屋敷地区。小松原、下竹原(しもだわら)、新小松原を通過する旧街道沿いの通称北長町・西長町・坂屋町には、伝統的な家並みが残り、中心市街から離れている事もあって静かな佇まいの地区でした。
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