美川は松任市の南西、白山を源流として日本海にそそぐ手取川の河口右岸に位置する小さな港町で、町の伝統産業の美川仏壇で知られています。美川はかつては本吉と呼ばれ北前船が出入りし、廻船問屋が軒を連ねた加賀第一の港であり、造船所も有した一大要港として繁栄した歴史を持ちます。
江戸時代、加賀藩によって「町」へと昇格し、加賀藩大坂回米の積み出し、肥料・海産物・木材の移入港として栄え、町は10町に拡大していきました。
しかし手取川の土砂堆積は江戸中期ごろから深刻になり、すでにそのころから港の衰退が進んでいましたが、明治期以降の船舶の近代化と大型化に加え、鉄道の開通が本吉港の終焉を決定的なものにします。
明治2年に石川郡本吉町と能美郡湊村が合併し、石川郡と能美郡のそれぞれ1字を取って美川町が生まれます。旧本吉地区は北郷、湊地区は南郷と称されましたが、わずか2年で湊地区が分離し、本吉地区のみが美川町の名を引き継ぎました。
しかし、この小さな地方の港町が歴史舞台に登場するのは、この後の事。明治政府は金沢県域の北辺に位置していた金沢県庁を、県中央部の美川町本吉奉行所に移転し、県名も石川県に改称しました。これは不平士族を多く抱えた旧城下町の金沢を避ける意味の方が強かったと言われます。しかし、金沢の県庁復帰運動に加え、能登半島が石川県に編入されると、今度は県庁所在地が南に寄りすぎていた事もあって、再び金沢に県庁を戻すことになりました。しかし県名は石川県のまま据え置かれます。
伝統産業、美川仏壇の始まりは室町時代といわれ、石川県で最初に仏壇製造が始まったとも伝えられています。北前船の寄港地として栄えた本吉港。造船技術に加え美川仏壇は海路で遠く北海道にまで販路を拡大していくなかで、船積みによる長い航海にも耐えうるために、他に類をみない堅牢なホゾ組木地が生まれました。
さらに、暴れ川の異名も持つ手取川の水害に悩まされ続けた環境からも、水害に強い塗りを施す必然性もあり、そうした中で堅牢な美川仏壇が生まれたそうです。
やがて美川町は第2次大戦前には仏壇従事者が200人を超え、仏壇の町として地元民謡にも歌われるほど繁栄したといいます。
現在の美川町中心部は、碁盤の目に近い整然とした町割りに、江戸時代の「町」らしい町名が残されています。しかしながら、伝統的な民家はわずかに点在する程度であり、町はかつての中心商店街を石畳に変え、「古い家並みと歴史」を案内する掲示物を整備していますが、それに記述されているものの多くが跡形も無く、時すでに遅しの状況です。そのなかで新町筋には美川町の伝統産業である堅牢豪華な美川仏壇の製造場と販売店が軒を連ね、かつ伝統的な家並みがわずかながら残る場所です。
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