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復興と共に景観を整備した旧駅前ストリート(河井町)
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能登半島といえば、いまだ訪れた事がない人も「輪島の朝市」を連想する、能登の代名詞的な知名度を誇る町です。しかし、能登半島のどのへんに位置するかまでは、以外に知られていません。輪島市は能登半島先端部の日本海に面した西海岸、周囲を山に囲まれた町です。
「輪島の朝市」は、元来は近郷農民と漁民の物々交換から始まった市でしたが、今や町をあげての観光資源として、地元以外の業者も数多く参加する一大イベントです。
輪島は歴史の古い漁業の町で、江戸期の家数は1,500軒を数え、所口(七尾)に継ぐ規模の地とされていました。もっとも規模や職業構成は「町」並みでしたが、藩政期は「村」として扱われていましたが、後に「町立て」(準町)に指定されます。
一方湊は「小屋湊」や「親の湊」などと称され、数多く北前船が出入していました。
江戸期までは、輪島という町名は無く、鳳至町・河井町・輪島崎町・海士町の4町全体を指す地域の総称名であり、輪島が町名になるのは明治になってからの事です。
このような規模でしたから、輪島には49の市が立ち、河井町本町と鳳至町の住吉神社の両町交代で市が立ちました。現在の市も同じ場所に立っていますが、河井町は朝市として、鳳至町は夕市と性格を分けて行われています。
輪島の主要産業は、中世から続く白毛素麺で藩主にも献上されていましたが、その後の競争の激化と原材料不足により衰退、かわって鍛冶業が盛んになり輪島最大の産業へと発展しますが、江戸中期には他国の製品によって淘汰され衰退します。そして、このころから鍛冶に代わって、古くから細々と続いてきた輪島塗の漆器産業が開花します。
明治以降の輪島は三方を山に囲まれた陸の孤島の立地から、車両通行可能な道路や鉄道の建設が待たれましたが実現せず、一方で港湾整備の遅れにより海路による定期船の運航も発展しませんでした。耕地や産業にも乏しく、近代化に取り残された輪島は長きにわたって困窮し、多くが北海道への移住者を余儀なくされます。
昭和に入り、念願の国鉄能登線が輪島まで乗り入れましたたが、過疎化は止まらず赤字路線に。輪島線はJR発足に伴い廃止路線となり第3セクターの「のと鉄道」に引き継がれましたが、それでも利用客の減少により2001年七尾線 穴水〜輪島間が廃止されました。町の玄関口であった輪島駅は道の駅として利用されている。
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河井町・重蔵神社の側に温泉が湧く |
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震災の復興を期に整備された家並み |
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鳳至町の住吉神社(信号の先)には夕市が立つ |
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河井町・朝市通りのある河原田川沿いに古い家並みが残ります |
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