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能登半島基部の東海岸を占める氷見市は富山県最北端の町であり、JR氷見線の終着駅でもあります。富山湾を隔てて立山連峰を臨む港町で、山の稜線から登る朝日を最初に見る事ができる地である事から日見、もしくは立山連峰の万年雪から氷見、海上の漁火から火見など、どれも立地に由来する美しい地名です。
奈良時代の万葉集では「比美之江」と歌われ、風光明媚な地として知られていたようです。この「比美」という名は現在も残ります。
このように氷見は古くからの湊として栄え、越中国府と能登国府を結ぶ官道である志雄路が通る交通の要衝でもありました。
射水郡から独立して氷見荘とされ、江戸時代の加賀藩時代には氷見郡として引きつがれていた経緯からも、この地が地方都市として発達していた事を伺えます。
氷見は加賀藩の重要な港として河西七港のひとつに指定され、今石動(いまいるす
ぎ)の町奉行の管轄下で、町制は町年寄、町肝煎、算用聞の町役人三役により行われていました。湊川を境に北町と南町に分かれていましたが行政的には1町扱い。
元禄年間から急速に町は拡大していき、北町・南町の7町を総称して本町。その後編入・町立てされた町を散町(ちりまち)として区別しています。散町(現在の伊勢大町・地蔵町・中央町)と本町と合わせ、南十町、北六町とも称されています。
氷見は漁港であると共に、氷見地方100か村を顧客とした生産物、消費物資の一大市場として長く繁栄したものの、明治以降は地理的に孤立していた事と、農業・工業の衰退とともに「富山の北海道」と言われていた時期もありました。
しかし、現在は県内一の漁獲量を誇る港町としてその名が知られています。
第2次大戦による空襲の被害は無かったものの、町は幾度もの大火で消失しており、残念ながら古い家並みはほとんど残されていませんでした。中央町はその町名とは対照的に、古い漁村の家並みが残る地区であり、連続性はないものの、数少ない伝統的な民家が残る場所です。伊勢地方では「おだれ」と呼ばれる軒先に垂れ下がる庇を備えているのが特徴。また七尾へ至るかつての街道沿いでは、北大町地区に往時の名残を残す家並みが連なりますが、その中にポツポツと古い民家も見られます。
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北大橋を渡った北大町にも古い家が残ります |
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