|
金屋町の千本格子の町並み |
北陸最大の大名家、加賀100万石の2代藩主前田利長は、隠居後に富山城に入るものの、火災によって城は焼失。関野ヶ原と呼ばれた場所に新たな城を築いて「高岡」と名付けました。城下には金沢から家臣や商工人約1,000人を移住させ、京都に倣った方格状の町割りを行います。しかし利長の死と幕府による一国一城令によって高岡城は廃城となり、家臣は金沢へ引き上げる事になります。
高岡の衰退を気に留めた3代藩主前田利常は、町民の高岡転出を禁じる一方でさまざまな特権や免税措置による繁栄政策を行い、やがて高岡は加賀藩きっての商都に発展していきます。
またこの高岡が今に知られる鋳物の町として発達し始めたのは、高岡の祖、前田利長によるもので、当事の砺波郡西部金屋村から7人の鋳物の職人を招いて土地を与え、税金の免除などを行い手厚く保護育成したことに始まります。
そして、現在も高岡銅器は全国シェア90パーセントを誇ります。
高岡の街並みは千本格子の街並みが続く金屋町と土蔵造りの商家が立ち並ぶ木舟町及びその周辺に残されています。
千本格子の伝統的町家が軒を連ねる金屋町は、名前のとおり鋳物職人の町であり、しかしながら京の町家筋を思わせるその落ち着いた佇まいからはとても工業的なイメージが湧きません。実は鋳物の作業場・工場はこの町家の奥にあったのです。
耳をすませば「たたら」の音が・・・と言う事はもうありませんが、いまも数軒の鋳物造りを行う家があるといいます。
表通りの木舟町以外にも高岡の町にはのいたる所に、伝統的な土蔵造り商家を目にすることができます。明治期以降に建てられたものですが、いずれも堂々とした重厚な造りで高岡商人の繁栄ぶりが伺えました。
|
|
金屋町は職人の町 |
|
|
|
木舟町の土蔵街 |
|
金屋町は商人の町 |
|
|