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  戸出
といで
 高岡街道と上使街道が交差した要衝の町

 富山県高岡市戸出町3丁目

商家・古民家・土蔵  商店街  JR城端線・戸出駅
 
 

高岡市のJR高岡駅から南へ延びる、JR城端線は富山県下のローカル線のなかではなかなかのドル箱路線であります。この沿線には礪波郡の中核都市がいくつもあるのですが、その中の一つ、戸出という町もまた古い歴史を持つ町です。
とは言っても戸出町の誕生は江戸時代と新しいもので、庄川下流左岸の氾濫原台地であった戸出野とう平原を、下中条の十村役(大庄屋)である川合又右衛門が開拓を行った事に始まります。そして生まれた「灯油田村」の中に形成された在郷町である戸出新町が現在の戸出町の始まりでした。ちなみに戸出の由来ともなった当時の灯油田の地名は、JR城端線の一つ南の駅「油田」にその一遍を残しています。

戸出野は古代より北陸往還・北陸道などが通過する場所で、戸出新町は江戸期に本格的に整備された諸街道が東西南北にが交差する交通の要衝として恵まれた立地で急速に発展します。
川合家は高岡城築城の際に五箇山からの木材運搬を指揮して、戸出開発の認可を受け息子の又兵衛(2代又右衛門)と共にこの地へ移住して開拓を行い、以後当地における歴代の十村役を務めていました。
加賀藩3代藩主前田利常はこの戸出に御旅屋(本陣)を設けその管理を川合家に委託し、その後川合家に払い下げられます。これは今でいうところの、利用頻度の少ない公共施設のアウトソーシングのようです。
その戸出御旅屋があった場所は現在の戸出3丁目にある北陸銀行戸出支店付近だったようですが、本陣の建物は所有者の変遷とともに、やがて建物は取り壊され、門だけがかろうじて河合家の菩提寺である戸出2丁目の永安寺に移築保存されることになりました。

戸出を南北に縦貫する高岡街道、東西に横断する道は江戸初期における北国街道で後の上使街道(戸出以東は中田往来とも)であり、その十字に交差する街道に沿って家屋が建ち並び、六斎市も開かれていました。また戸出を貫流する庄川支流の千保川には河港もあり、水陸交通の要衝・庄川右岸唯一の収納米集散地として加賀藩の藩蔵も置かれ、いっそう町は拡大して一大商業地へと発展します。ところが、戸出は何度も藩に「町」への昇格を申請しますが、なぜか認められません。
当時の富山藩は経済の発展の為に、藩内にいくつもの「町」を奨励し、認可育成に励んでいました。しかしなぜ、戸出は認められなかったのか。
おそらく、上使往来は北国街道のショートカット路であり、高岡をはじめとして後期北国街道沿いの宿場町の利権を守るためだったのでは無いかと思います。そうでなければ、戸出より下回る「町」が多く認められていた説明が付きませんが、理由はともかく、当時の資料では戸出は高岡を上回るほどの商業力を有していたと記されているのです。

とはいえ、それほどまでに栄えた町としては、その後の産業構造の変化に翻弄され続けたか、近世在郷町の雰囲気は残るものの、伝統的な家並みはほとんど残されてはおらず、また町の活気もほとんど感じられない死に体のような状況でした。