津具村(現・設楽町)は奥三河の最北端、長野県根羽村と接する人口は1,900人ほどの村。そして周囲を1,000m級の山々に囲まれた山奥のまた奥の僻地の町。
中世に足助荘に属したこの地域は、戦国期に武田信玄によって金山が発見された事から注目を浴び、織田信長もこの地を直轄領として採鉱夫達を保護しました。
江戸期には上津具村と下津具村に別れ、金山のあった上津具村は天領(幕府領)となり、下津具村は挙母藩領となります。これが両村の気質を大きく違え、明治以降も長く両村の合併を妨げる要因となっていました。ちなみに上津具村にあった上向山金山は明治・大正を経て昭和32年に閉山するまで長きに渡り続いていました。
ここで紹介する上津具村は江戸期に村方村と町方村に別れていました。中心である町方村は三河吉田から信州へ主に塩を運んだ中馬輸送の「塩の道」こと三州街道(伊那街道)の宿場町としても栄え、馬宿や商家が400mほども並んだと言います。この上津具宿は塩の道のほかにも、長野善光寺、遠州秋葉山、三河鳳来寺山などの信仰路の要衝でもあり、多くの参詣客が常に行き来していた事によって他地域の文化がもたらされ、家造りや人の気質に大きく影響したと言われています。
当時は町の中央を河川から引き入れた水路が流れ、柳並木の情緒ある町並みだったと記録があります。しかし宿場は昭和32年の大火によって壊滅、幅の広い道路は当時の名残でもあったものと思われ、また下町に残る袖壁を備えた重厚な商家建築はあきらかに、他の地域からもたらされた建築様式であり、この山間の小さな村の歴史を物語っているようでした。
(2009.5)
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