四間道は(しけみち)と読み、江戸時代に尾張藩によって城下の防火対策の為に造られた筋の一つです。その四間道がある那古野地区は名古屋の中心部、名古屋駅の東側すぐの場所にあります。
那古野はその韻からも察するように、「名古屋」の元となった地名で鎌倉期ごろの荘園にその名が登場します。名古屋の文字が使われるようになるのは戦国期以降の城下町時代と思われます。
江戸時代における名古屋城下では、大船町と呼ばれていました。堀川は名古屋城築城の物資を運ぶため、福島正則によって開削された運河でしたが、築城後は水運を利用して、米穀・塩・味噌・酒・薪炭などを陸揚げされ、酒・味噌などの醸造業を営む商家が軒を連ねて発展しました。
元禄13年(1700)の大火後、尾張藩は土蔵の建ち並ぶ筋を防火目的に、4間
(約7m)の道幅に整備し、漆喰塗籠造りの土蔵を連ねて建てるように奨励し、これが四間道と呼ばれる通りになったのです。
四間道の東側には土蔵群、西側に商家が建ち並ぶ町並みは今も変わることなく残されています。かつては1千とも云われるほどの土蔵が軒を連ねたといいますが、現在は一区画のみとなってしまいました。それでもかなりの迫力を感じます。
運よく戦災もくぐり抜け、今なお大都市名古屋の中心部に残る奇跡の町並みは、県や市によっても保護され、町並みの保存整備が行われているようでした。
観光客の姿はありませんが、地元住民は町並みを生かした生活を楽しんでいる感じを受けました。
|