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江戸時代、全国にその名が知られた青物市場である「小田井市場」。市場の成立は清洲城の名古屋移転が行われた時期と言われ、その後明治をまたいで実に昭和初期まで続きました。
慶長13年、”清洲越し”と呼ばれた清洲城の名古屋移転は城にとどまらず、城下町とその住民、さらに100を越える寺社にいたる全てを移転させるという壮大な事業でした。その為それまで舟渡しが行われていた庄内川には、人や物資の移動の為に枇杷島橋の架橋が行われます。この架橋に加え、尾張の新首都となった大消費地名古屋城下町に隣接していた小田井には、東海道と中山道を結ぶ美濃路が通過していた事もあり、近郊農村だけにとどまらず遠方からも所産物が集まり、市場の発展が形成されるとその後の発展が決定的なものになったのです。
市場は現在の橋詰町付近にあり、その運営の中心であった6軒の問屋がいた場所が現在の六軒町になります。その後問屋は急速に増加して38軒にも及び、その問屋が軒を連ねた場所が問屋町と呼ばれました。
美濃路沿いに形成された本通り商店街には現在も往時を偲ばせる町並みが残されています。町並みに連続性はありませんが伝統的な商家建築のほとんどが重厚な佇まいを見せています。これらの商家の1階屋根には、古くからの信仰である「屋根神様」が祀られています。祀られているのは主に津島神社、秋葉神社、熱田神宮の3社で、それぞれ疫病除け、火難除け、武運長久を願ったもの。名古屋を中心に尾張で広まった信仰でしたが、今ではほとんど残されていません。
西枇杷島町の本通り商店街は隣りの新川町の商店街と繋がっています。境界にはそれぞれの商店街を示すゲートが設けられていますが、ここでは1つの町並みをして紹介しています。
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西枇杷町と新川町の境界線・青い鉄柱が「門」 |
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美濃路沿いにわずかに残る「屋根神様」 |
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新川町土器新田の町並み |
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