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岡崎の南、知多湾に接する小さな城下町西尾は、江戸時代の城下町として知られている一方でその面影はほとんど残されていません。
西尾城は豊臣秀吉の時代、関東に移された徳川家康の押さえとして岡崎城に配された豊臣大名田中吉政の支城となります。しかし関ヶ原の戦いで田中吉政は家康に寝返
り、数々の功績をあげて筑後柳川32万石を与えられます。その後西尾城には旗本から大名に昇格した本多康俊が2万石で入り、ここに西尾藩が成立します。続いて松平大給成重が入封しますが4年で転封。太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏と数年ごとに藩主は入れ替わり、最後に再び松平大給家で定着、5代続いて明治を向かえます。ちなみに松平大給家は十八松平家の筆頭格の家柄で、この西尾藩の大給家は宗家にあたります。
西尾城は鶴城とも言われその築城は中世足利氏の時代と言われています。岡崎城主田中吉政の支城時代に大規模な改修工事が行われますが、完成するのは西尾藩成立後の太田資宗を経て井伊直之の時代になります。
西尾の城下町はこのように目まぐるしい城主の入れ替えと、3期に引き継がれてようやく完成した西尾城に見られるように、長い期間をかけて徐々に周辺集落を包み込みながら発達していった為に、町は武家と町人が混在した古い形態をしていました。
現在西尾小学校や資料館など公共施設が整備されている西尾城址とその周辺には、城下町特有の町割りと古い町名が引き継がれていますが、名古屋のベッドタウンとしての発展が著しく、また駅前などは大規模な区画整理が進行中で武家町も町人町もその姿はほとんど見られません。
かろうじて肴町と本町付近には伝統的な商家建築がわずかに散見されます。肴町と順海町の裏筋には迷路のような小路が残されていますが、宅地化が迫っていました。
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肴町にはかろうじで商家の町並みが残る |
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幸町交差点に建つ旧西尾銀行の商家 |
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